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メンバーコラム

「先輩からの贈り物」

2014.12.1 Mon

会社の先輩から一冊の本を頂いた。開高健のコピーライター時代のことを綴ったもので、わたしが開高ファンなのを知っての贈り物だった。開高健と言えば、芥川賞作家、九死に一生を得ながら従軍記者としてベトナム戦争の最前線の様子を伝えたルポライター、世界を渡り歩く釣り師、旅人、グルメでありグルマン、そして洋酒メーカーの広告を手掛けたコピーライターであり自らCMにも出演する小説家…といくつもの顔が思い浮かぶ。

その本では、開高さんが22歳で妻子持ちとなりながら小説家になることを目指し、先輩のつてを頼って上京を画策する青年時代にはじまり、先に勤めていた妻の口利きで同じ洋酒メーカーに入社し、芥川賞受賞後、同社を退職した後も嘱託となって作家とコピーライターという二足のわらじを履きながら世の中にメッセージを発信し続けてきた様子が描かれていて、開高さんのことだけでなく戦後の彼ら宣伝部の広告活動を垣間見ることができ、広告業に身を置く者にとっては非常に興味深く、面白く、また「故きを温ねて新しきを知る」といった刺激を大いに受ける。

当時の宣伝部のメンバーには開高さんやデザイナーの柳原良平氏、直木賞作家の山口瞳氏のほか個性あふれる面々が日々知恵を絞り新しいアイデアを練っていた。

彼らの発信する広告は時代の変遷とともに移り変わっていく。ウイスキーというお酒が高級嗜好品でありまだ市民権を得ていないころの広告、その飲み方さえも浸透していないころの広告、そして大衆が身近に手にできるようになったころの広告、テレビという新しいメディアができてCMを通じて音楽やアニメーションという手法を用いて発信される広告。時に語りかけ、時に呼びかけ、時に共感を生み、そして強烈に刺さるメッセージを残す。彼らは広告を通じて常に読み手と対話するというコミュニケーションをとりながら、新しいライフスタイルを提案していく。また一方で、全国各地の酒屋を回って取材した情報を販促ツールに取り入れたり、店頭のPOPづくりを行ったり、系列のバーに来たお客に配るPR誌やノベルティを企画・デザインしたりと、今でこそ一般的な広告手法ではあるが、ブランディング、セールスプロモーション、マーケティング、パブリシティ、イベントといったコミュニケーション戦略をいち早く展開し、当時としては斬新で大胆な企画をいくつも打ち出してゆき、ついには先のメンバーらで広告制作会社を立ち上げてしまう。
同社は、新しくビール事業に進出するために当時の専務と多くのスタッフ総勢39人がヨーロッパの醸造所を見学して知見を吸収して帰り、商品開発にあたっているが、それまでやったことのない領域に果敢にチャレンジする気風と、それを許す企業風土があり、任された者もそのことに本気で取り組みキチンと結果を出していく。

1961年、海外旅行がまだ稀有な時代に「○○○を飲んでHawaiiに行こう!」という山口瞳氏のコピーとともに当時約40万円相当の旅行クーポンが100名に当たるという景品キャンペーンがはられた。いつの時代も法律はあとからついてくるのだが、1962年に「景品表示法」という法律が制定され、商品の購買を条件にそのような高額な景品を提供することができなくなり、今日の広告活動もその法律によって今だに制約を受けている。

同じ年、開高さんは、当時の内閣によって打ち上げられた所得倍増計画のもと高度経済成長のための準備とともに経済大国の一員に加わらんと高揚している社会に 「人間」らしく
やりたいナ
「人間」なんだからナ
で知られる強烈なメッセージを放つ…。
そんな開高さんも著作権問題を起こしたというエピソードが書かれてあった。敬愛するある詩人の作品の一部をオマージュ的に模したコピーを使用したところ、その詩人のご遺族から強硬なクレームを受け何十万かの使用料を支払ったということがあったらしい。既存の作品にインスパイアされて、あるいはパロディ化して広告を作成し、元の作品の作家とトラブルになることは今も昔も同じのようだ。元の作品を超える創作性が認められないと単なる「模倣」と見られてしまうが、開高さんのその広告は作品としては名作と称せられその年の広告賞を得たとも書かれている。

まもなく開高さんの命日である。私が入社した平成元年(1989年)の12月9日に亡くなっているので、没後ちょうど四半世紀ということになる。開高さんらとともに宣伝部の黎明期を支えた方々がいなくなってしまった今となっては、直接お話を聞くこともできないが、茅ヶ崎には開高健記念館があり、当時のままのたたずまいと数々の作品や遺品が残されている。開高さんと同時代を過ごしていない平成生まれの若い方々にも是非とも訪れてみて欲しい。大阪生まれのオモロいおっさんの語りにきっといろいろ刺激を受けてもらえると思う。
また、会社のあるここ赤坂の一ツ木通りの246にほど近いところに開高さんがよく通ったというBARがある。開高さんがいつも座ったというカウンターの席には開高さんが残した言葉である「Nobless Oblige(位高ければ努め多し)」との文字が彫られたプレートが今でも貼られている。同じようにドライマティーニを啜りながらあれこれ瞑想してみるのもいいかも知れない。

ここブランドデザインにも個性あふれるプロが集っている。デザイナー、コピーライター、プランナー、ファシリテーター、建築士らが、商品開発やCI開発をはじめ、空間デザイン、コンサルティングと幅広い得意先の課題解決をこなすために常に最適解を模索して考え抜く。
私自身は法務業務との二足のわらじを履いているが、リーガル面やコンプライアンス的側面でのサポートに加え、そういった現場の仕事にも食い込んでいければと思っている。

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